鋼鉄のハム固日記

日記になってないし

トレーニング時間捻出の話

ポジティブリストとネガティブリスト

小学校に英語教育を導入すべきかどうかという議論がなされたとき、事前の意識調査ではたいていの親は賛成だった。チャンスのウィングを広げるために、我が子の将来のために、というのはよくわかる。しかし時間は限られているから「英語をやると国語の時間が減るかもしれませんよ。それでもやりますか?」という聞き方をすれば、調査の結果は変わるだろう。我々大人の仕事と同じように、いいと思うものをなんでも付け加えていけば仕事も生活も破たんする。このようにやりたいものを積極的にリストに付け加える考え方を「ポジティブリスト」という。それにたいして「最低限やっておいたほうがいいものはキチンとやって、あとは放っておけ」という考え方もある。これを「ネガティブリスト」という。

(この文章は俺氏のテキトー要約である。くわしくは苅谷剛彦増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書1866,2006年)pp.44-48.)

 

 

 

 

8時間で考える

 人間の生活を「睡眠」「仕事」「それ以外」に分類し三等分すると、カテゴリあたり8時間を確保することができる。睡眠の科学や労働者の権利獲得の歴史から考えて、8という数字はまぁ妥当なところだろう。

 睡眠を削ったり仕事をやり過ぎたりすると何かを犠牲にしなければならないから、長期的には生活が破たんする。その結果、本来出来たはずの仕事をさばけなくなる。

 学生のときは毎日15時間以上机に向かったし、就職後は深夜帰宅が日常だった。いずれも長期的にみれば身体を壊したし、たいした成果を上げられなかった。

 

 仕事は最大8時間、睡眠時間7.5時間(残りの0.5Hは睡眠導入)をしっかり確保するようになってから「限られた時間で何をするか」を考え直すようになった。集中する時間とそうでない時間(雑用)のメリハリがつき、仕事の質・量は全体として向上した気がする。「限られた時間で何をするか」という問題は、優先順位のつけ方の問題、あるいは「とびっきり大事なものだけを選択する行為」だと理解している。

 

 そういう作業の積み重ねの中から練習時間を捻出するのがトレーニーとしてのスタートラインなのである。

 

普通に生きるとトレーニングできない

 さて「その他8時間」の内訳だが。

 食事(準備・摂取・片付け含む)に1h×3で3h、通勤に1h×2で2h(通勤は自転車だがトレーニング効率が悪すぎるのでここはダイエット走に切り替えた)。残る3hで家事1h、風呂0.5h、子どもと過ごす時間1.5hを見積もっている。

 合計で8時間だから普通に生きるとトレーニングできないのである(!)。

 

 では何をどう削るか。

 1.食事の時間

 ・忙しい日やトレーニングが危ぶまれる日は、必ずと言っていいほど社食で済ませる(準備と片付けをカットするための0.5hを買う)。 

 ・土日や空き時間で作り置きをしておく(出来ないことも多い)。

 2.通勤時間

 ・自宅勤務でいい日は通勤2時間をカットする。

 ・雨が降れば電車とバス。移動中にガッツリメール仕事して仕事時間に換算する。 

 3.休日の時間

 ・土日も早朝に起きて少なくとも2日で7時間くらいは稼いでおく。完全オフの日はほとんどつくらない。

 

 それでもダメなときは何かを削る。睡眠時間は7時間切ることも多いからよくない。

 こうしてちょっとずつ貯金した1.5~2h(準備含めて)をトレーニングに充てる。

 とくに、子どもがはやく寝る日には規則性があるので1.5時間のトレーニングは絶対にはずせない。

 練習しない日もあんまりダラダラしなくなった。回復しながら生活を充実させることにより翌日が充実する。それによってトレーニング時間を確実に確保する。

 

 もちろん計画どうりにはいかないけど、8割くらいは実行出来ている。残りの2割はもともと計画に無理があった、そんなもんだと考えて回復日にする(その場合翌日の負荷を上げる)かトレーニング時間を短くして最大化を狙う。

 

 こういう生活して減量までやるもんだから、近い人には「何のために?」とか「何を目指しているの?」と聞かれる。

 いや、そういうことじゃないんだな。

 楽しいからやる。

    それ以上の理由はないし、そもそも理由など考えたこともない。

 漫画が好きな少年に「なんで漫画を読むの?」って聞くのは愚問じゃないか。

 

トンボ釣りが好きな少年の話

 トンボ釣りが三度の飯よりも好きな少年がいて、暇さえあればトンボを捕まえに出かける。だがしかし、少年にトンボ釣りをやめさせるのは簡単だ。それはただ一つ、「トンボを釣って来い」と毎日毎日、命令することだ。

 人間は本来楽しみにしていたことであっても、それを義務としてやらなければならなくなると、とたんに苦痛以外の何ものでもなくなってしまう。

 (この文章は俺氏のテキトー要約である。くわしくは内田義彦『生きること 学ぶこと』(藤原書店,2004年))

 

 仕事も自転車もそうだろう。

 

 「何を大事にして生きるか」ということは、自分がやりたいことは何なのか、もっと大袈裟に言えば「“自分は何者なのか”という問いへの反映」だと思う。

 一緒に頑張ってきた仲間たちに新しい家族ができる(た)。我が家にも新しい家族が増える。こんなに嬉しいことはない。

 その一方でこれからいろんなことが変わる。ちょっと頑張ればできること、頑張ってもどうしようもないこと、やりたくてもできないこと、甘えさせてもらってやれること、そういう葛藤の中で日々試行錯誤を重ねていく。

   家族の幸福の最大化と競技生活の最大化を両立する方程式を見出したいと思ってる。

 

 自転車は楽しい。